Brionglóid
禍つ宮
佳蛇 の巫女
02
母の雪芽は、この佳蛇の地の巫女だった。十二年前に死んだ。
元々、余所の土地の小さな社に仕えていたというが、火事で焼け出されたのだとか。その当時、既に彩音は生まれていたらしいが、物心が付くか付かないかあたりのことで記憶も曖昧だ。とうとう、父親の名を聞きそびれてしまった。
ともかくその時、仕える社も住む場所も失くしてしまった母は、本来なら子連れということもあって路頭に迷うはずだった。子のいる余所の巫女など、何処も引き取るわけがない。
だが、幸か不幸かそんなことにはならなかった。事の詳細を聞きつけた佳蛇の社の神官長が、すぐさま自分の社へと招き入れたからだ。
単なる親切心ではなかったと思う。当時は幼くて物の道理が分からなかった彩音も、その後の母を見ていれば想像がついた。
神官長が母を見るその目は、終始、神職にある者の目ではなく単なるやに下がった中年男のものだった。母は、幾分年を取っていたがそれでも美しい女性だった。
物静かな母が、儚げな微笑しか浮かべなくなったのは、ちょうど美波を生んだ辺りからだ。父親が誰か、考えるまでもなかった。
おとなしい性格の母が、逆らえるはずもない。行く宛てのなかった自分と子とを、引き取ってもらっている。その為に。
巫女とは名ばかりの、妾のような扱いを受けたとして、彼女に耐える以外の何が出来たろう。
じっと耐えて……数年後、流行り病の煽りを食ってあっけなく死んでしまうのだとしても。
巫女とはいえよそ者だった母は、きちんとした葬儀を執り行われることもなく、他の多くの犠牲者と一緒に遺体を埋められるだけで終わってしまった。気弱な神官長は、彼女をきちんと弔おうと皆の前で口にする気概も、幼い遺児を引き取って育てようという責任感も持たなかった。
母の死は、幼い彩音の心を少し大人にさせた。
腫れ物にでも触るように接する里の大人達。滅多に会いに来ることもない神官長。
小さな妹の面倒を見ながら、彩音はいずれ美波をつれて佳蛇を離れようと思った。今はまだ無理でも、いつかはと。どこへ行ったとて、ここよりひどい所はないだろうと、子供の頭で単純にそう思っていた。
だがそれは叶わなかった。
母が亡くなった翌年は四年に一度の大祭が行われる当たり年だったが、巫女が次々病に倒れて奉納舞の舞い手が誰もいなくなってしまったのだ。代わりを立てようにも、神職についた経験のある女は皆既婚の身であり、里の掟で土地神に捧げる巫女舞を踊ることは許されない。
巫女の筆頭である斎女は、乙女でなくてはならなかった。
それならばと、名前が上がったのが美波だった。雪芽が母親というだけでなく、父親が誰か、暗黙のうちに分かっていたからだろう。忌も明けており、それは名案かと思われた。
けれど美波は三歳になったばかりで、幼すぎて舞いなどできるはずもない。議論の末、異父姉の彩音が奉納舞を納めることになってしまったのである。
以来三年間、彩音は斎女として社で生活した。
父親知らずの子として疎まれていた彩音が、その後も社に留め置かれたのには訳があった。
雪芽がこの世を去った日から、異形の被害が深刻化していた。
力ある異形は肉体を持ち人を食らう。土地神の加護を請い、その霊力で異形を退けるのが巫女の仕事だが、残った他の巫女達ではどうにもならなかったのだ。
母が以前いたという社は、古くからある由緒正しいものだったようで、母は町の女が持ち回りでやるような巫女ではなく、正統な巫女の家系の出だったらしい。
思い起こしてみれば、母には弱き異形達の姿が見えていた。母の側にいると、彩音も影響を受けてそれらが見え、度々怖いと泣いては母を困らせたものだ。
雪芽ほどの効果はないにしろ、彩音を斎女に据えたことで一時的に被害は減少した。
しかし、周囲は彩音ではなく、あくまでも美波を斎女に迎えたがった。
自分だって頑張っているのになという思いと一緒に、妹はもっとすごいんだと周囲に誇りたい気持ちもあって、彩音は何だかもやもやした。
けれど、美波の傍にいる時以外は自分も常人と変わらないという事実を大人達に言い出せずにいたから、負い目も感じていた。
きっと、美波がいなくなってしまったら、自分が斎女をやっていたって異形は襲ってくるに違いない。それは避けたかった。
美波が六歳になった年に、交代だと言われた。
妹を守るために里を出ようと思っていたのに、実際は美波のほうが自分よりも力を持っていて、周りからも求められていたのだ。少し惨めな気持ちだった。
でも、きっとこれでよかったのだ。斎女になれば大事にしてもらえる。自分では、妹を幸せにはしてやれないから。
夜中に一人で抜け出し、崖の上に座り込んで膝を抱え、泣きながらそう結論を出した。
斎女を退いた後は一般の巫女として美波に仕えるようにも言われたが、それは辞退した。美波の傍には姉としていればいいと思った。
自分は影となり、斎女である美波を援け、護り続けよう。母の二の舞にはさせない。幼い心で海の神にそう誓った。
丁度その時に東から陽が光を放ち、涼しい潮風が優しく撫でる様に頬をくすぐっていったのを妙にはっきり覚えている。
あれはもしかして、母の遺した思念の為した業だったのかもしれない。